2011年08月02日
陸前高田市の取材③
陸前高田の取材③
陸前高田市の取材②の続き
次に、山のふもとから坂道を上がり、住宅地に入りました。

コンビニと、津波で流されたお店が仮設店舗で営業を再開。
飲食や文房具などを販売しており、僕らもここでのどを潤しました。

「負ゲダクネエ」と書いたイベント案内のチラシです。
いろんな地域の太鼓演奏が行われるようです。
そこから、近くの神社に移動して、高槻まつりへのメッセージビデオを撮影しました。
その前に、高槻まつり振興会会長の柿原さんからの手紙を読んでいただきました。

―― 手紙の内容を紹介します。――
あれから三ヶ月半という日々が瞬く間に過ぎていきました。
今まで見たことのない大惨事、唖然としてテレビ、各メディアを通して、ただ大自然驚異に「何で、東日本にと・・」と言葉がありませんでした。私たちも震災以来早々に義捐金活動などの手配をとり合い各方面で活動を始めたりして、やれる事を速やかに行動するしかありませんでした。
その頃、ちょうど我がまちで第30回を迎える「芸能フェスティバル」を開催するか否かで検討している時に、貴殿からの日本太鼓連盟を通じてのメッセージを拝見し、「命の鼓動を送ろう」オープニングに「鎮魂と希望の太鼓を打とう」とその開催を決め、貴女からのメッセージを1500名収容の大ホールで披露させていただきました。
会場からは、悔しさをこみ上げるように静まり返り「高槻の元気を、陸前高田へ」と太鼓の演奏をさせていただきました。その太鼓の鼓動はきっと届いたと思います。
我がまちは京都と大阪のちょうど中間にある人口36万人が暮らす中核市ですが、年間を通して様々な催しを展開していて、住民も近隣からも沢山の人たちが集います。イベント大好き人間が集まる活気ある街です。
太鼓にこだわるのは、今から18年ほど前、市政50周年の時に、何か伝統芸能として受け継いでいける物として、「京の雅と大阪の活気」を我がまちにも築こうとの思いで、素人が集まり、高槻太鼓推進会を設立、そのバックアップを(社)高槻市観光協会が受け持ち、以前から開催されていた「高槻まつり」の舞台や各種催事での演奏、オーストラリアにあるシドニーシンホニーホールでも演奏するまでになり、地域の元気の源を担っています。
そこで今年8月6日・7日に第42回を迎える夏の最大イベント「高槻まつり」(2日間に25万人が集う)に、貴太鼓集団を招待できないか、検討していましたが、同時にそちらでも夏の催しがあって無理とのこと、それじゃ(社)高槻市観光協会と高槻太鼓が所有している大きな太鼓と氷上太鼓の皆さんの衣装一式を寄付したらと、話が盛り上がり実行委員会で決定させていただき、まつり当日に市民の方々にも呼びかけ義捐金を募ることも合わせて決議させていただきました。
付きましては、少し落ち着いた時期(今年10月中頃)にでもお届けしたいと思っております。
今年の高槻まつりのテーマも がんばろう日本!!「高槻から元気を送ろう」をスローガンにして開催いたします。
未曾有の出来事に何も出来ない私たちですが、全日本太鼓フェスティバルをひと時でも早く開催できますよう願っております。そして、いつの日か高槻まつりの舞台に、その勇壮な太鼓をご披露して頂ければとも思っております。
末筆になりましたが、暑さ益々厳しくなる季節に成りますが、くれぐれもお身体ご自愛頂き、ご活躍されます事をご祈念申し上げます。
高槻まつり振興会 会長 柿原 勝彦
(高槻市観光協会 会長)
高槻太鼓推進会 会長 黒藪 輝之
これを読み終えてから、メッセージをいただきました。
ちょっと編集もしております。
小野寺さんは他にもいろいろとお話ししてくれました。
「まちはもう元には戻らないかもしれません。それに、また津波が来るかもしれません。
できれば、同じ町民と一緒に、津波の来ないまちで暮らせたら・・・。
でも、まちは無くなっても今まで築いてきた太鼓の文化まで無くしたくないんです。
今あるのは人とのつながり、絆だけなんです。その絆から文化を復興したいんです」。
物質的なものより、築いてきた文化を失うということは、人の心まで震災に奪われる
ような気がします。
高槻まつりも「ふるさとづくり」、つまり心の故郷、自分の帰る場所になってほしいという
想いもあると、聞いたことがあります。
自分のふるさとを失うということは、楽しい思い出と共にある「そのまちの文化」を失うことではないでしょうか。
それを失ってしまうと、ふるさとは景色とともに、幻と似た記憶のなかでしか存在しなくなってしまう、そんな気がします。
本当に、一番つらいことなのかもしれません。
陸前高田市の取材④に続く
陸前高田市の取材②の続き
次に、山のふもとから坂道を上がり、住宅地に入りました。

コンビニと、津波で流されたお店が仮設店舗で営業を再開。
飲食や文房具などを販売しており、僕らもここでのどを潤しました。

「負ゲダクネエ」と書いたイベント案内のチラシです。
いろんな地域の太鼓演奏が行われるようです。
そこから、近くの神社に移動して、高槻まつりへのメッセージビデオを撮影しました。
その前に、高槻まつり振興会会長の柿原さんからの手紙を読んでいただきました。

―― 手紙の内容を紹介します。――
あれから三ヶ月半という日々が瞬く間に過ぎていきました。
今まで見たことのない大惨事、唖然としてテレビ、各メディアを通して、ただ大自然驚異に「何で、東日本にと・・」と言葉がありませんでした。私たちも震災以来早々に義捐金活動などの手配をとり合い各方面で活動を始めたりして、やれる事を速やかに行動するしかありませんでした。
その頃、ちょうど我がまちで第30回を迎える「芸能フェスティバル」を開催するか否かで検討している時に、貴殿からの日本太鼓連盟を通じてのメッセージを拝見し、「命の鼓動を送ろう」オープニングに「鎮魂と希望の太鼓を打とう」とその開催を決め、貴女からのメッセージを1500名収容の大ホールで披露させていただきました。
会場からは、悔しさをこみ上げるように静まり返り「高槻の元気を、陸前高田へ」と太鼓の演奏をさせていただきました。その太鼓の鼓動はきっと届いたと思います。
我がまちは京都と大阪のちょうど中間にある人口36万人が暮らす中核市ですが、年間を通して様々な催しを展開していて、住民も近隣からも沢山の人たちが集います。イベント大好き人間が集まる活気ある街です。
太鼓にこだわるのは、今から18年ほど前、市政50周年の時に、何か伝統芸能として受け継いでいける物として、「京の雅と大阪の活気」を我がまちにも築こうとの思いで、素人が集まり、高槻太鼓推進会を設立、そのバックアップを(社)高槻市観光協会が受け持ち、以前から開催されていた「高槻まつり」の舞台や各種催事での演奏、オーストラリアにあるシドニーシンホニーホールでも演奏するまでになり、地域の元気の源を担っています。
そこで今年8月6日・7日に第42回を迎える夏の最大イベント「高槻まつり」(2日間に25万人が集う)に、貴太鼓集団を招待できないか、検討していましたが、同時にそちらでも夏の催しがあって無理とのこと、それじゃ(社)高槻市観光協会と高槻太鼓が所有している大きな太鼓と氷上太鼓の皆さんの衣装一式を寄付したらと、話が盛り上がり実行委員会で決定させていただき、まつり当日に市民の方々にも呼びかけ義捐金を募ることも合わせて決議させていただきました。
付きましては、少し落ち着いた時期(今年10月中頃)にでもお届けしたいと思っております。
今年の高槻まつりのテーマも がんばろう日本!!「高槻から元気を送ろう」をスローガンにして開催いたします。
未曾有の出来事に何も出来ない私たちですが、全日本太鼓フェスティバルをひと時でも早く開催できますよう願っております。そして、いつの日か高槻まつりの舞台に、その勇壮な太鼓をご披露して頂ければとも思っております。
末筆になりましたが、暑さ益々厳しくなる季節に成りますが、くれぐれもお身体ご自愛頂き、ご活躍されます事をご祈念申し上げます。
高槻まつり振興会 会長 柿原 勝彦
(高槻市観光協会 会長)
高槻太鼓推進会 会長 黒藪 輝之
これを読み終えてから、メッセージをいただきました。
ちょっと編集もしております。
小野寺さんは他にもいろいろとお話ししてくれました。
「まちはもう元には戻らないかもしれません。それに、また津波が来るかもしれません。
できれば、同じ町民と一緒に、津波の来ないまちで暮らせたら・・・。
でも、まちは無くなっても今まで築いてきた太鼓の文化まで無くしたくないんです。
今あるのは人とのつながり、絆だけなんです。その絆から文化を復興したいんです」。
物質的なものより、築いてきた文化を失うということは、人の心まで震災に奪われる
ような気がします。
高槻まつりも「ふるさとづくり」、つまり心の故郷、自分の帰る場所になってほしいという
想いもあると、聞いたことがあります。
自分のふるさとを失うということは、楽しい思い出と共にある「そのまちの文化」を失うことではないでしょうか。
それを失ってしまうと、ふるさとは景色とともに、幻と似た記憶のなかでしか存在しなくなってしまう、そんな気がします。
本当に、一番つらいことなのかもしれません。
陸前高田市の取材④に続く
Posted by kosao at 09:01│Comments(0)
│シティライフ
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